信州の古寺を訪ねて 安楽寺三重塔の全景 少し前の号で書きましたが、日本建築史の研究の道に進みたいという思いを断念し、卒業と同時にエンジニアリング会社(プラント建設)へ就職することにしました。しかしその思い断ちがたく、社会人になる前に可能な限り古建築に別れをしてこうと、卒論・卒業制作のまとめで忙しい中、都内、そして東京近郊の遺構を見て回りました。入社式の直前には、日帰りで信州・別所温泉近郊に点在する三重塔を見てきました。今月は、その旅の1年半後にまとめた紀行文を載せることでお許し願います。たぶん、当時休刊していた同人誌『棕櫚』が再開されたら寄稿しようか、とでも考えてまとめたのだと思います。可能な限り原文の再現を念頭におきましたが、文中にむずかしい専門用語が多用されている箇所については部分的に書き直したこと、お断わりしておきます。 信州上田周辺略図
信州別所の安楽寺の八角三重塔は、その特異な形でよく知られている。いつか訪れてみたいと思っていたものの、なにせ一つだけとび離れているので、足を向ける段になると、躊躇せざるを得なかった。しかしその安楽寺の近くの大法寺、前山寺にも立派な三重塔が残っているとのことなので、意を決して信州路に向かうことにした。卒業式の終わった翌々日、三月も末で、上田盆地は残雪輝く山々に囲まれ、まだまだ寒かった。 安楽寺三重塔組物詳細 次にこの塔の建立された時期であるが、これは学会でも定説がない。寺伝によれば、安和2年(969年)平惟茂(国香の孫)が信濃守に任じられた時、勅を奉じて国家鎮護のため塔を建立し、内部に金光明最勝王経を納めたとされている。のち、寿永年間に木曽義仲が平氏と戦った際(以仁王の令旨を受けた義仲が信濃から越後へ抜ける際の戦?)に、寺は兵火のため焼失したが、塔は災いを免れたと記されている。さらに正応元年(1288年)に禅宗に改宗され、相当に栄えたらしい。以上のことを史実としたとき、私は、塔の建立時期を次のように推定したい。即ち、現存の塔が唐様である以上、寿永年間に残った塔が何らかの理由で消失し、禅宗に改宗された正応年間以降に、唐様を取り入れて再建されたことに間違いあるまい。それがいつ頃なのかが問題になるのだが、ここで、所謂「唐様」という様式に触れねばならない。そもそもと言うと仰々しいが、我が国における唐様の起源は、承元元年(1207年)に入宋した、曹洞宗の開祖・道元の弟子・徹通義洲が南宋五山の諸刹の制式を写生して持ち帰ったことに始まり、その「徹通写生」と称される『大唐五山諸堂図』(金沢・大乗寺蔵)に基づき、我国の唐様建築が大成されたことになっている。こうして日本へ入った南宋五山の建築様式(唐様)を最も正確に伝えているのが、鎌倉・円覚寺の舎利殿であり、東京東村山・正福寺の地蔵堂であって、共に弘安年間(1285年頃)の建立とされ*1、国宝に指定されている。 石段下から安楽寺三重塔を望む
禅宗はやがて貴族や上級武士の間で信仰を得て非常に盛んとなり、地方にも普及されるにつれ、唐様も亦、地方の建築に影響を及ぼすようになった。しかし、伽藍配置に始まり、個々の建物の立面から建築手法に至るまで細々と規制した唐様も、時代が下がるにつれ、次第にその形がくずれ、やがて形の上でこそ影響を残すことがあっても、精神的な面での姿は全くうすれてしまう運命にあった。したがって、安楽寺の塔の建立を云々するときには、どうしても、様式的な背景とともに、こうした時代的な背景も頭に入れておかなければならないのである。大分脇道にそれたが、本論にもどろう。前にも少し触れたが、この塔をみるとき、成程、全体としての感じは唐様の色合いがつよく、その姿を十分に伝えていると言えるが、細部に至ると、例えば礎盤(柱の受け)の形などに見られるように、唐様本来の手法からはずれている点があり、舎利殿建立時期から大分年代の差があることは否定できない。従って、寺が禅宗に改宗した頃(舎利殿建立の3年後)に再建されたとは到底考えられず、鎌倉末期から室町初期にかけて建立されたとされる東山梨・清白寺の仏殿が、唐様の様式を完全に近く残している点を考え合わせて、室町中期頃の建立とみるのが最も妥当であろう*2。とは言え、何はともあれ、この塔は種々の点で変わっており、真に特異な塔である。要約すれば、 前山寺三重塔
2)独鈷山前山寺 大法寺三重塔全景
3)一乗山大法寺 大法寺三重塔組物詳細
屋根は檜皮葺で、木割は比較的大きいのであるが、山を背負っているためか、見た目には小さく感じる。ところでこの塔、軒の出は塔には珍しく二手先出組で支えているように、必ずしも深いというのではなく、また、屋根の反りもいいとは言えない。この辺りのことは、むしろ前山寺の塔の方がいいかもしれない。ただひとつ、屋根のセットバックのプロポーションがいいだけで、実に美しく見えるのである。こんなところは、真に宮大工の棟梁の腕次第であって、単に時代が古いからいいとかということではなく、「我が手よし、人これ見よ」という気構えの問題なのであろう。後世の、就中、江戸時代の棟梁に見せたい作だと言える。何はともあれ、この塔は美しい。俗に「見返りの塔」と称されているが、その名にふさわしく、幾度でも振り返ってみたい塔である。振り返ってみたくなるほど美しいことは勿論だが、振り返ってみるにふさわしい地形に建っているとも言える。この辺りの人が、どれほどこの塔になじんでいるのかはわからぬが、名前の通り、折あらばこの塔に手をかざし、「おらが村の国宝だべ」、と心に刻み込んでいるのではなかろうか。郷愁を呼ぶ塔だと言える。私は大きな収穫を得て、その日の夜行で帰京した。 (2019年04月) |
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