わたしの愛用の万年筆

なりわいにしているとは言わないまでも、多少なりと文筆に携わっている者として、今までに何本かの万年筆を持ったことがあります。学生時代は日本製のパイロットやプラチナで、どちらも国際レベルの製品、使いやすさもあり十分満足していました。社会人になったのちも、しばらくは、同じものを使っていたと思いますが、いつのころからか世界の最高峰ともいえるモンブランの万年筆を手にするようになりました。ところが、それをいつ、どこで購入したのかが茫々としていて、まったく記憶がないのです。わたしの書斎には、南米、そしてサウジアラビアに滞在していたころ家族の許へ出した手紙がいまでも残されていて、全部ではありませんが、明らかに万年筆での筆跡のものがあります。筆跡から判断すると、インクの色、字の太さなどから、どうもサウジアラビア滞在中にはすでにモンブランを所有していたように思えます。そう判断する決定的な根拠は、じつは、モンブランのキャップの頭につけられた二つの正三角形を逆に重ねたヘキサグラムの白いマークの存在です。このマークは、ユダヤ民族の象徴ともいえる「ダビデの星」、六芒星の形にそっくりなため、ユダヤ人の国イスラエルと敵対関係にあるサウジアラビアにとっては許し難いマークだと思われているのです。むろん、実際には相互の形は異なっているし、まったく関係ないのですが、このマークのおかげで、サウジの空港などでは、担当者によっては通関時に引っかかることがあったのです。そんなわけで、通関の際はモンブランを隠すようにしていましたので、このことはサウジで所有していた確かな証左だといえるのです。とは申せ、ではそのモンブランをどこで購入したのかということになると、サウジ渡航前にすでに海外の空港の免税店に寄っていますし、サウジのスーク(市場のこと)には多くの欧州からのブランド店が出店していましたので、いずこかのモンブランの店で購入したのだと思います。ただ記憶がないところをみると、経済的には多少なりと余裕のあった海外勤務中であり、通常の筆記道具を購入するていどの軽い思いで入手していたのでしょう。

わたしの持っていたモンブランは、もっともポピュラーだと言えるマイスター・シュテック ル・グラン146でした。イリジウムを用いた手作業による14金のペン先、インクはモンブラン独特の吸入システムで、ミッドナイトブルー色のインクが吸い込まれていくときの感触が何ともいえず心地よく、149の太いタイプの万年筆と異なり、小さなわたしの手にもしっくりと合い、たいそう気に入っていました。ペン先も本来はローマ字を書くためなのでしょうが、しばらく使ううちに日本字も素直に走るようになり、もう、この万年筆にすっかり魅せられてしまいました。もっとも、サウジアラビアではせいぜい手紙を認めるていど、本格的に使い始めたのは、帰国してからでした。帰国して間もなく、モンブランを使って最初の著『サウジアラビアおもてうら』の執筆を始めました。この時の原稿は、以前『わたしの文章修業』(2012年2月号参照)に書きましたように、全編ほとんどを書き直しましたので、下書きを含めれば  400字詰め原稿用紙で数百枚にもなったでしょうか。一流作家ならまだしも、半ば持ち込みの原稿、礼を失することのないよう訂正箇所はすべて新たに紙を貼って書き直しましたから、字数にすれば相当なものだったと思います。このときの経験で、モンブランは、もうわたしとは切っても切れないような愛用の万年筆になったと言えます。陸軍軍事技術史シリーズの第1作『石油人たちの太平洋戦争』も、モンブランで原稿用紙を埋めていきました。400枚ぐらいだったでしょうか。病院建設のために神戸に滞在中のときで、兵庫駅近くのアパートの和室に置いたちゃぶ台で背を丸めながら書いていたものでした。今でも背が丸まっているのはその後遺症でしょうが、書き上げた原稿用紙がだんだん厚くなっていくのを見るのは、うれしくもあり、またそれが、出版の当てのない原稿を書く上で気持ちの支えにもなったものでした。神戸で執筆、探すべき出版社は東京だということで、出版にこぎつけるまではずいぶん苦労したものです。

モンブランの活躍をよそに、わたしはもう1本、別の万年筆を所有していました。シェーファーのブラッシュトゴールドです。  のちに知ったのですが、シェーファーといえば、サンフランシスコで吉田茂が歴史的な講和条約に調印したときの万年筆と同じブランドであり、ニクソンやレーガンといった歴代の米大統領も愛用していたそうです。この万年筆は、じつはサウジアラビア・ジェッダに滞在中に顧客贈答用に用意したもののサンプル品で、自分で買ったものではないのです。万年筆・ローラーボール・ボールペンの3点から成る、贈答するにふさわしい豪華なセット物で、ふだん使用するにはもったいないし、カートリッジタイプのためスペアインクも用意しておかなければならないので、ずうっと引出しに入れたままでした。この万年筆を愛用するようになるまで、じつに20年余の歳月が流れました。その経緯はこんなことです。

 万年筆で原稿を書いた2冊目の本の出版は1991年、わたしにとっては最初の四六版の上製本で、湾岸戦争の最中の時でした。「近代戦の陰に石油あり」、これは売れるぞ!出版社は期待したようですが、書店に並んだ頃には戦争は終わっていました。さなくても、とても売れそうもないジャンルのせいか、上製本はこれが最後となってしまいましたが、6年後には文庫版が出版され、現在はそれも新装版となっておりますので、見方によっては売れている本だと言えるのかも知れません。そんなこともあって、出版社からは次作の催促があり、アルジェリア滞在からもどった2000年から、3作目の執筆にかかりました。そのころになりますと、原稿執筆の手法がまったく変わってしまい、メカに弱いわたしもワープロで原稿を作成するようになっていました。ついで第4作目のときはパソコンに変じ、印字の便利さ、とくに訂正箇所の切り貼りから解放されることを考えると、わたしにとっては、もはや原稿を万年筆で手書きするなんてこと、まったく考えられなくなってしまいました。そうでなくても、すでに執筆から遠ざかっていたこともあって、もうモンブランの出番はなくなってしまい、机の引き出しの中で、半ばホコリにまみえている状態になってしまったのです。そうなると、せっかく愛用していたモンブランもすねてしまうのでしょうか。ペン先はひっかかるようになり、インクの吸引もスムーズにいかないのです。長いこと愛用したモンブランでしたが、わたしは第1号を見捨てることにしました。そうなると勝手なもので、万年筆の出番が少なくなったにもかかわらず、つい第2号が欲しくなるものです。そんなわたしの気持ちを察してくれたのか、1999年4月、アルジェリアへ赴任する前に旅したアラブ首長国連邦・ドバイでモンブランの店を見つけた連れ合いが、愛用していたのと同型のものを買ってくれました。たいへん嬉しかったのですが、使用する機会は少なくなっていたし、ドバイの店にあった品物との相性が合わなかったのでしょうか、どうも以前のようにしっくりいきませんでした。日本でペン先を調整してもらい、アルジェへも持って行ったのだと思いますが、結局、ほとんど使わないままに、いつの間にかお蔵入りのような状態になってしまったのです。そのような経緯でモンブランに頼らなくても不自由することはなくなっていたのですが、それでも手紙などを認める際は、やはり万年筆に頼りたくなります。そこで、机の中に長いことねむっていたシェーファーの登場になったわけです。いざ使ってみると、文字が太く、柔らかなタッチでペン先は走り、手紙を書く上ではうってつけの万年筆だということが分かりました。とくに毛筆・ペン字対応の和紙の便箋を使いますと、下手くそなわたしのペン字でも、いかにも丁重に書かれた手紙のように見られますので、たいへん満足しております。最近では、手紙も印字がかなり多くなっていますが、これからも手書きを重んじたいと思っていますので、シェーファーはこれからの愛用の万年筆となっていくことでしょう。

(2015年2月)

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