悪夢ふたたびーアルジェリアのこと アルジェリア国内パイプライン図 アルジェリア・イナメナスでの事件、衝撃的でした。悪夢がよみがえった思いでした。15年ほど前、まだテロが激しかったころのアルジェに滞在した経験から、今回の事件を通して、アルジェリアのことを振り返ってみました。可能なかぎりアルジェリアのことや、アルジェリア人の理解に力点をおいたつもりです。わたしの経験自体拙いものですし、最近の情勢にはまったく疎いなかで、限られた時間で書き下ろした雑文、しかも十分な推敲もできておらず、発表するかどうか躊躇しましたが、多少なりと皆さまのご理解の参考になれば、と思っております。亡くなられたN社の皆さま方に哀悼の意を表しつつ…… わたしは1998年から1999年の約2年の間に、アルジェリアへ5回渡航し、延にして約7か月首都のアルジェに滞在しました。公用語がフランス語のため、フランス語通訳との同行でしたが、経由地のチュニスからチュニジア航空でアルジェに向かう際、通訳が「えっ!アルジェ空港へ着くのですか。そんなこと聞いていませんでした」、と搭乗前にすっかりビビッてしまったのです。はじめはどういうことか理解できなかったのですが、わけを聞いてみて、はじめて納得できました。彼は、いぜんN社の現場で通訳経験があり、その際は現場近くに直接入国し、軍が厳重に警備する中での仕事だったそうです。たしかに、アルジェ空港ではエアフランス機がハイジャックされ、アルジェリア航空もテロの恐れありとのことで、わたしたちは両機の利用ができませんでしたから、彼がビビるのも無理からぬ面があったわけです。当時、N社はアルジェリア国内2ヶ所に現場がありましたが、内陸部にせよ地中海沿岸部にしても、飛行機や船で直接サイト入りしていたようです。1999年以降テロは激減、アルジェ市内や近傍ではほとんど発生しなくなりましたが、内陸奥地、ましてや今回の事件発生地イナメナス辺りは国の要衝、とうぜん軍の厳重な警備下にあったはずです。たかだか30名ていどの武装集団に襲われるなんてこと、予想のできないことでした。 タッシリ・ナジェール わが国はアルジェリアから石油・天然ガスを輸入していませんので馴染みがうすいのですが、同国がフランスからの独立を求めて戦っていた最中の1956年にサハラ砂漠で油田が発見されて以来、アルジェリアは有力な石油産出国となっております。原油生産量ではOPEC加盟国内で4.3%を占めており(2011年実績)、天然ガス生産量も世界の約3%を占め、サウジアラビアより上位となっています。この数字だけからいえば、決して大きな数字ではありませんが、ヨーロッパの消費量という見方をすれば約20%以上を担っているのです。冒頭の地図で示されているようにアルジェリア国内には砂漠から2本のパイプラインが通っています。東の1本はチュニジア国境近くからイタリアへ、西は同国第2位の都市オラン近傍からスペインへと海底パイプで地中海を渡っており、石油・天然ガスは同国の外貨獲得の98%を占める重要な資源であり、ヨーロッパ側としても重要なエネルギー資源となっているのです。今回、武装勢力掃討後いち早く生産再開の声が出たり、軍の無謀ともいえる制圧作戦に一定の理解を示した英仏首脳の態度は、日本人の感情を逆なでしましたが、理由はこんなところにあるのでしょう。事件現場であるイナメナスは上述のパイプラインの出発点に位置する重要な地点です。アルジェの東南、直線距離で約1050キロ、広義にいえば大サハラ砂漠内のエディエン砂漠にあり、隣国リビアとの国境に近く、すぐ南には世界遺産のタッシリ・ナジェール(岩壁画で有名 一説にはアカデミー映画『イングリッシュ・ペイシェント』の撮影場所)があり、砂漠の民トゥワレグ族(ベルベルの一族)が住んでいます。わたしの滞在中は外国人の立ち入りがきびしく制限され、いまでもその状況は変わらず、軍による警備は厳重だったに違いない、わたしなどはそう思っていました。 日本での新聞報道(1988年当時) ひと頃は「アルジェリアの危機」とまでいわれ、テロが多発したアルジェリアですが、なぜそのような事態になったのでしょうか。粗っぽい切口ですが、簡単に説明すればこうなります。1991年の人民議会選挙でイスラム原理主義者の政治団体FIS(イスラム救国戦線)が80%の議席を獲得し、圧倒的な勝利で第1党になったにもかかわらず、軍がクーデターによってFISが政権の座につくことを抑えたのです。これに対してFISは、はじめはアルジェのカスバを中心に小規模なテロで対抗していたのですが、裁判所によって非合法化され解散させられたために、地下にもぐり全国規模のテロ活動を展開するようになった、というわけです。これが表向きの理由ですが、事の真相はそう生易しいことではなさそうで、ましてやアルジェリアの場合、歴史的な背景が複雑で、理解しにくい面があります。その辺りのことについて、できるだけ今回の事件との係わりに配慮して箇条書きにしていこうと思います。 現地での新聞報道(1988年当時) 1)イスラム原理主義運動が世界的に注目されたのは、1979年にイランのホメイニ師が亡命先のイラクから帰国し、イスラム教の理念を基盤とした国家を樹立したことにあります。このことが近隣のイスラム諸国に与えた影響は大きく、たとえば翌年には原理主義の武装集団がサウジアラビア・メッカ(正式にはマッカ)のカーバ神殿を占拠するというメッカ事件を起こしています。そもそも原理主義運動はイスラム教の原典であるコーラン(クラーン)を絶対視し、原典に反する考え方を徹底的に排撃しますので、近代化が進んでいるアラブ・イスラム諸国の体制側とは全面的に対決することになり、体制側は原理主義運動を抑えこむことになるわけです。アルジェリアでも、1982年頃にイスラム国家樹立運動が起ったのですが、他の諸国と異なりこの国の場合、独立以来一党支配してきたFLN(民族解放戦線)に対する不満から、1989年に中近東では初めて複数政党制が導入され、なんと原理主義者の政治団体FISが合法的に認められて、しかも人民議会選挙に大勝して政権を担う直前までいったわけです。 日本での新聞報道(2002年アルカイダの名が出てきた)
2)アルジェリアでイスラム原理主義運動が始まった同時期、アフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦うムジャ―ヒディン(イスラム聖戦士)を助けるために、数万人に及ぶアラブ義勇兵(アフガン・アラブ)がイスラム諸国から送り込まれました。アルジェリアからも4000名ほどの若者がアフガニスタンに行ったのです。彼らは山岳戦に手慣れたゲリラ戦法を学び、爆弾の取り扱いを身につけた歴戦のつわものに育ったといわれています。しかし1989年ソ連軍の撤退とともにお役御免になり、アルジェリアからの義勇兵の一部は残留してタリバーン(アフガニスタンのイスラム原理主義武装集団)の設立に参加、一部はその後、旧ユーゴ解体後のボスニア・ヘルツェゴビナ内戦、コソボ、チェチェン紛争などに参加、残りの約3000名はアルジェリアに帰国したそうです。帰国しても受け入れ先のなかった彼らはFISの軍事部門としてテロ活動に参加するようになったわけです。タリバーン・グループは、アフガニスタンに基地を構えた国際テロ組織アルカイダ(1911年アメリカ軍に殺されたオサマ・ビンラディンが設立)のメンバーになり、1900年代後半から北アフリカで活動をするようになりました(エジプト・ルクソール事件、ケニア・タンザニアの米大使館爆破事件など)。2000年以降アルジェリアの山岳地帯でも活動を始め、2002年11月にアルジェリアの山岳地帯でアルカイダの北アフリカ・サハラ組織(最近の新聞では北アフリカ・マグレブ組織と表示)の指導者エマッド・アルワン(イエメン人)が殺害と地元紙で報じられましたが、このニュースによってアルジェリアにもアルカイダが存在することがはじめて確認されたのです。エマッドはアフガ二スタンで訓練を受けた一人ですが、驚くことに、今回襲撃のリーダーと目されるモフタール・ベルモフタール(アルジェリア人)も同じ流れを汲むアフガン・アラブ出身の人物だと報じられています。やはり密接につながっていたのでしょう。 7ヶ月のアルジェ滞在中は、ある意味で拘置所生活を強いられたような思いでおります。その間、一貫して塀の中での生活で、外出は月に3、4回、銃を携帯した警備官の護衛付、車はトヨタのランドクルーザーをイギリスで仕立てた防弾車でした。そんな環境の中でも、接したアルジェリア人は好感が持てる人ばかりでしたし、彼らの対日感情は決して悪くありませんでした。今でも、わたしはかの国に限りない愛着をいだいております。大好きな国です。当時滞在していた日本人は大使館で名前把握が可能な20名足らずだったと記憶しています。それが現在は数百名にもなるのでしょうか。まだまだ日本からは遠い国のようですが、世界遺産にも登録されたローマ時代の遺跡など観光資源も豊富であり、チャンスがあるのなら、これからでも巡ってみたいものと思っています。それが今回の事件がきっかけで萎んでしまうなら、こんな悲しいことはありません。一刻も早く、正常な姿にもどることができるよう念じてやみません。
(注記1)アルジェリア独立戦争に関しては、映画『アルジェの戦い』が参考になります。テロの原形がこの戦争にあること、よくわかります。DVDで入手可能です。 (2013年2月) |
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